退職金
1994年、仰木彬が監督に就任。名将の就任と有望な若手選手の台頭でチームには明るいムードが漂った。イチローが高卒3年目、初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録(その後2000年に自らが更新)。このイチローの活躍は社会現象にまでなり、その功績に対してオフには正力賞が贈られた。イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり(最終順位は2位)観客動員も球団新記録を大幅に更新した。高速バス 大阪 1995年 o 1月17日、阪神・淡路大震災が発生。一時は神戸での試合開催は不可能かとも言われた。しかし球団を挙げて被災地復興の一躍を担いたいという強い思いのもと、神戸でのペナントレース実施に踏み切った。準備不足が懸念されたものの、「がんばろうKOBE」を合言葉に戦いを挑むチームは目の色が違った。高速バス 格安 o 4月19日、野田浩司が一試合奪三振19の日本新記録を達成。 o 6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースは独走状態となる。7月末に早くもマジック点灯。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、対戦成績では大きく勝ち越した。 o 8月26日、佐藤義則が近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)において史上最年長でのノーヒットノーランを記録。高速バス 大阪発 o 「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦に全敗し、念願の地元胴上げはならなかったものの、9月19日には球団譲渡後初のリーグ制覇を実現した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れる。 o 被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援によりチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。 1996年は日本ハムに先行を許し、8月前半には5ゲーム差をつけられたものの、覇者の貫禄を見せて9月上旬には逆転、9月23日の日本ハム(グリーンスタジアム神戸)との直接対決にイチローのサヨナラ安打で勝利を収めてリーグ2連覇、「神戸での胴上げ」を実現した。日本シリーズでも巨人を4勝1敗と圧倒し、地元神戸で日本一に輝いた。観客動員数は過去最高の179万4000人を記録。高速バス 激安 1998年、この年のドラフト会議で、「ダイエー以外の指名ならば大学へ進学する」と意思表明していた沖縄水産・新垣渚に対して1位指名を強行、当時の福岡ダイエーホークスと競合の末に交渉権を獲得。新垣側は入団拒否を言明してオリックス球団側の担当スカウトだった編成部長三輪田勝利の接触すら拒むなど難航を極めた。この状況を当時のオリックス球団社長だった井箟重慶など球団上層部が厳しく叱責した結果、ケアのしようがないほど精神的に追い詰められた三輪田が11月27日に那覇市内で投身自殺に追い込まれる事件を引き起こしてしまう(遺書はなかったが、これらの事情から三輪田の死は職務遂行上の自殺であったと断定され、翌1999年に労災認定が認められた)。 o この時、井箟は三輪田の自殺を受けての記者会見の席上で「球団に責任があったとは思っていない」と暴言を吐いて大きな問題となり、激しい非難にさらされた。また新垣本人や家族・学校関係者にも痛烈な批判が続出した。 2000年 o ファームの収益性改善・独立採算を目指し、ファームのチーム名をサーパス神戸に改称する。高速バス 京都 o 4位に終わり、12年ぶりのBクラス転落を喫する。シーズンオフにイチローがアメリカメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。これ以降、主力選手の流出が相次ぎ、チームは急速に弱体化の一途を辿る。 2001年、またしても4位に終わり、本年を以て仰木が勇退。また、「イチロー後」を担える存在が台頭せず、集客力・話題性の低下が露となる。 2002年から石毛宏典が監督に就任する(就任直後のドラフト会議では同監督は「ドラフト会議はフロントの仕事である」という本人の意向により会議を欠席する)が、1年目はチーム打率.235と投高打低に陥り、阪急時代以来の39年ぶり2度目の最下位。 2003年高速バス 金沢 o 石毛を早々と解任し、レオン・リーを監督に据えるが今度は投手陣が壊滅し、福岡ダイエーホークス戦で20失点以上を4度記録するなど、プロ野球史上最多の927失点(自責点818点)、チーム防御率も5.95を記録し2年連続最下位となる。規定投球回数到達者もゼロだった。 o 本拠地・グリーンスタジアム神戸が国内初のネーミングライツ(特定企業に施設の命名権を与えるシステム)を導入。情報通信会社のソフトバンクが命名権を取得し、Yahoo!BBスタジアムに改称される。 2004年沖縄 ダイビング o 前年まで西武ライオンズを率いた伊原春樹を監督に招聘、ダイエーから村松有人をFAで獲得、阪神で実績を残したムーアを獲得するなど、積極的にチーム改革に取り組み期待を集めたものの、いざシーズンを迎えるとまたしても投手陣が崩壊(防御率5.65)、3年連続最下位。近鉄との球団統合もあり、伊原もこの年限りで辞任する。 o 9月、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年〜1992年:近鉄監督、1994年〜2001年:オリックス監督)が監督に復帰。史上最年長・69歳での監督就任となる(2005年4月29日に70歳の誕生日を迎え、史上初の70歳台の監督となった)。 合併後 2004年高速バス 京都 o 12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった。球団の出資比率はオリックス80%、近鉄20%となる(合併発表から合併調印までの経緯についてはプロ野球再編問題を参照)。同時に近鉄球団職員の多数と選手の約半数を引き継ぎ、残りの半数を東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。グアム ダイビング o 近鉄との合併に伴い、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの本拠地である兵庫県と、近鉄の本拠地だった大阪府のダブルフランチャイズの形が取り入れられた。この為球団事務所と合宿所は、引き続いて神戸市に置くことになった(球団事務所は2006年オフに大阪市に移転した)。 o ホームグラウンドは従前からのYahoo!BBスタジアム(神戸市)に、近鉄の本拠地だった大阪ドーム(大阪市)が加えられた。チームは専用球場(プロ野球協約に定めたメインホーム)を大阪ドームとし、後々は大阪ドームに本拠地を一本化する方針を示した。 2005年オーストラリア 留学 o Yahoo!BBスタジアムがネーミングライツ契約切れと、Yahoo!BBの親会社であるソフトバンクの福岡ダイエーホークス買収を機に再改称。スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が新たに命名権を取得し、スカイマークスタジアムに改められた。この年は大阪で34試合、神戸で32試合(他東京ドーム遠征2試合)を開催。 o 合併によるチーム力の底上げや仰木の復帰により、チームの成績は前年最下位から、シーズン終盤ギリギリまでAクラス争いをしたものの結局4位でシーズンを終え、プレーオフ進出を逃がす。 o 仰木は健康面の問題から1年で退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任(12月15日に70歳で逝去)。2006年から中村勝広GMが監督に就任。中村は監督専従となり、GM職は当面空席となる。GMから監督になるというケースは球界史上初めてである。 2006年ダイビング o 専用球場をスカイマークスタジアムに変更する。(大阪ドームの経営会社が破綻したため)ただし大阪ドームを重視する方針は変えず、双方34試合ずつを開催した。 o 2軍のチーム名をサーパスに変更。 o 7月1日、大阪ドームもネーミングライツを導入。京セラが命名権を取得し、京セラドーム大阪となる。北海道スキーツアー o 8月27日、日本ハム戦敗戦で、7年連続Bクラスが確定。 o 9月1日、オリックス(正式には子会社のオリックス不動産)が京セラドーム大阪の施設を買収。これにより京セラドーム大阪の経営問題は収束した。 o 9月27日の最終戦終了後、成績不振の責任を取って中村勝広監督が辞任した。52勝81敗3分けの5位、勝率.391に終わった。 o 10月6日、元エンゼルス監督で、ドジャース育成部長であるテリー・コリンズが新監督として就任すると球団が発表。バリ島 o 11月20日、これまで神戸市(スカイマークスタジアム内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転し、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)をここに集約。なお神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小する。 2007年 o 京セラドーム大阪を専用球場に戻し、大阪で48試合、神戸で22試合(他東京ドーム遠征2試合)を開催。サイパン ダイビング o 1月6日 前川勝彦が大阪市内で女性をひき逃げし、さらに無免許(過去にスピード違反で免許取り消しになっていた)であったことが発覚、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。球団は1月18日前川を懲戒解雇処分とし、前川は5月7日懲役2年執行猶予4年の判決を受ける。 o 1月17日 球団と6度に渡る契約更改で交渉決裂した中村紀洋を解雇。他球団のチーム編成も完了した時期に解雇しており、選手会が野球協約に照らし合わせても問題のある交渉ではないかと厳しく糾弾する事態となった。バリ情報 o 2月20日、一部のスポーツ新聞で近鉄の球団経営への出資が成績に関係なく今季で終了する方針であることと、それに伴い球団がバファローズに変わる新愛称名の検討に入ったと報じられた。バリ o レギュラーシーズンに入っても、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すなど、優勝争いはおろかAクラス(=プレーオフ進出)争いにすらただの1度も加わる事無く、他のパ・リーグ全5球団に負け越し、合併からわずか3年で最下位に逆戻りした。ANAツアー o 他球団とのトレード等により入団した鴨志田貴司、長田昌浩、辻俊哉、ダン・セラフィニ(シーズン途中に退団)はおよそ期待外れの結果に終わった。その一方でトレード等により他球団へ移籍した谷佳知、早川大輔、中村紀洋らは移籍先で活躍し、ファンをはじめ、宮内オーナーも球団の編成方針を厳しく糾弾した。